monmonブログ

東京在住33年目。海外と仕事したり交際する中で比較しながら思考が深まったものを発散する

私が人生で成し遂げたいもの

私は、人生で何を成し遂げたいのか。

 

・子育てと仕事を両立する働き方がしたい

・既存の枠組みに当てはめずに自分のやり方を作りながら仕事も子育てもしたい

・好きな時に好きなところで仕事ができる働き方がしたい

・好きな人とたくさんの自由時間を共有したい

・仕事と生活と遊びの境界線がなく、遊びも仕事につながるような仲間と一緒に過ごしたい

・仕事の内容はITでも貿易でも物販でもサービス業でも何でもいい

・日常の生活の中でそのチャンスを見つけてすぐに試してみる、そんなワクワクを常に持っていたい

・一箇所に留まらず、生活そのものに新鮮さを持ち続けていたい

・計画的でなくても波に乗っていることを感じられる生き方がしたい 

 

傷ついたあとに傷つけ返さないでいられる生き方

傷ついたことを相手にわからせようとしたり

傷つけ返したり

それを繰り返すと

ヤスリでお互いを削り合うように

お互いの心がどんどん疲弊していく

そしてそのループは広がっていく

3人でお互いの心を削り合う

 

 

傷つくことは、生きている中で避けられないのかもしれない。

それとどう向き合うのが良いのか。

忘れるのが良いのか。

 

少なくとも、傷つけ返すことは

正しくは無いだろう。

その時自分のストレスからは少し解放されるかもしれない。

だけど一度つけた心の傷は完治しないように

自分が加害者になった罪も永遠に消えない。

 

自分が抱える心の傷を、自分1人で癒すことができるだろうか。

せいせいする、とか

思い知らせてやる、とか

そういう次元で満足するのは間違っている。

 

もっと高い次元からものごとをみて

どんなに傷つけられても

人を憎まず

相手に同情できる部分を探し出し

自分は相手を愛するということを

諦めてはいけない

 

愛してくれる人を愛するのはたやすいこと。

自分を傷つける人も愛せるか。

それが人のレベル、器かもしれない。

 

苦労が与えてくれるもの

高校時代に思ったことがある。

平凡な幸せより、苦労している人の方が、結局大きな幸せを得るということ。立った状態でジャンプするより、しゃがんでからジャンプしたほうが高く飛べる。そんなやつ。

 

自分も9歳の時に父親をガンで亡くした。もちろん大打撃だったわけだが、どこかの私は非常に冷静に受け止めていてなおかつ、これは「与えられたものだ」と感じ取っていた。ほどなくして受けた中学受験では100人以上の塾で私だけがハイレベルの中学に合格するという快挙を成し、私の感覚にあった「苦労によって得るものがある」が現実になった。

 

1,2年前から「お金持ちと結婚したい!」めいたものは一切なくなった。10年くらい前は顕著にこの欲求を持っていた。お金持ちとの結婚が、唯一の優雅な生活への切符だと思っていた。

 

自力で成功しお金持ちとなった親友もたくさんいるので、それで人柄を判断するわけでは全くない。

そして一生貧乏でいたいわけでは全くない。貧乏人と結婚することを正当化するわけでもない。

 

ただ自分が成し遂げたいことがまだあって、それは困難のある環境から出てくる予感があるだけだ。そして、自分が望むものを、自分の力で得たいんだと思う。それが資本主義でいう成功なのか、はたまた金銭という存在を否定した生活なのか、イマイチわからないんだけど。

 

ちなみに人間は楽な方を選んでしまう生き物だ。どんなに有能な人でも、好きなことでも、何か仕組みや期日がある時の方がパフォーマンスを発揮することは真理だと思う。

 

物価が日本の1/3の国の人と結婚する場合、その経済力の差は現実として存在する。そこをどう考え、どう貫けるだろうか。私の価値観や、芯の強さが鍛えられる。

 

未来には想像もできない苦労・苦難もあるのかもしれないし、今思ってることが「綺麗事だった」と悔やむのかもしれないけど。それも含めてやってみないとわからない。

 

 

このTEDはよかった。

整ってない環境のほうが人間はクリエイティブになれるよね、って話。

http://www.ted.com/talks/tim_harford_how_messy_problems_can_inspire_creativity#t-578608

お金がないと実現できないこと?

人生の真理がついに判明。豊かさに必要な事はたったこれだけ! - xevra's blog 

私は仕事柄何千億円持ってる富豪やTVに良く出てる著名人と話をしたりするが彼らは全然幸せそうには見えない。つまらなそうにイライラしがちだった。人に囲まれながらもある意味孤独だった。こういう姿を見る度に金や名声がいかに無力か、いやそれどころか毒ではないのかという事を考えさせられていた。

ここすごいわかるなあ。私も某有名な社長の側近として3年間働いたことがあり、当時数百億円の資産を持つ人とお話しする機会が多かった。が、その時に同じような印象を抱いた。周りにも、会社を上場させて大金を得たが、幸福度は全く変わっていなくてその事実に気づいて落胆したと言う友達もいる。

 

ただし、お金がないと実現できないこともたくさんある。

例えばこの記事で言う「たったこれだけ」は、豊かな人間関係と結論付けているが、その豊かな人間関係を維持するためにお金が必要だったら?家族や親友が地球の反対側に住んでいて会うための費用がとても高かったら?

愛する子供たちがいて、子供たちに良い教育をさせたかったら?ヴァイオリンが習いたいという子供にヴァイオリンを与えてあげるには?

 

お金がないと実現できないことはものすごく多い。

でもその事実は、私の脳を思考停止させる。

 

 

お金持ちな子ほど、お金への恐怖がない。

貧乏に育った人ほど、お金へのコンプレックス・恐怖がある。

 

お金への恐怖が無い人ほど、お金のことを考えないで生きることができる。本当に好きなことだけをやって生きることができる。

そういう方が、夢がスイスイと実現していく。

私は「思いは叶う」というミラクルが発生する経験をしたことがある。それは純度の高くエネルギー状態でいるときに発生する。

 

私はお金へのコンプレックスがある。だけど このあまりにも強いファクターに、囚われない自分を維持したい。

その方が人生がうまくいくと思っている。

それが私のチャレンジ。

 

ありのままの自分が出しにくかった

国について批判する人は無能かもしれない。何事も良い面と悪い面はセットであり、悪い面だけにフォーカスするのは無意味だったりする。
だけど自分の思考の整理のために書き上げたい。
 
私は比較的ありのままで生きてると思う。だけど「君は自由だ」と口を揃えて言われる。それは不快でもなくそれをアイデンティティとさえ思っていたんだけど。
裏を返すと
自由に生きるって珍しいの?
っていう素朴な疑問。
 
それの解答として書き上げている。
・礼儀正しさとその副作用
「日本は礼儀正しくて素晴らしい国だ!」と外国人の友達からはよく言われる。そうだと思う。私も日本人であることに誇りがある。だがしかし、礼儀正しさが生み出した副作用もある。表面的に言えないことが多い抑圧された環境の中で、匿名で本音を発信する文化は出来上がった。それが2ちゃんねるだ。
 
この記事にはだいぶ同感した。

gendai.ismedia.jp

「立場っていう単語は、他の言語に翻訳できません。日本独特のもの。それが日本人をがちがちに縛り付けて”自分でないもの”にしている」 

 

「立場主義の例として、安冨はSNSでの振る舞いを挙げる。日本人は実名でfacebookをやって、立場上、当たり障りの無い事を書いて、食べ物の写真ばっかりアップする。一方で、匿名でやっているTwitterでは、人をさげずんだり罵ってみせる。他の諸外国ではこういった極端な二面性は見られない。 「立場を守るために、溜まったストレスをどこかで発散しないと気が済まないんだよ。それが自分に向いたら自傷や病気になるし、外に向いたら、他人や家族への攻撃になる。ネトウヨとか、ネトサヨなんてのがあるのも日本だけ」

 

「でも日本はそのおかげでありえないくらい戦後の経済復興に成功しちゃったから、ずっと続けてれば良いって、いまだに思ってるわけ。立場を守るために、男は命を投げ出す。それが正しい、それが正義って。おかしいよね   

 

 

 

マケドニアの男女関係 - 日頃発散しているから健康的 - 

向こうで体で感じてきたのが男性の本当に性的な目線のない愛。

何か私が面白いことを言うとぎゅ〜〜〜っと抱きしめてくれたり、ふてくされてると子供をあやすように撫でたり抱きしめたりしてくれる。男友達が。そこに一切の性欲を感じないのだ。

日本で男友達にされたら「この人私に気がある」とすぐに思う。もしくはドン引きするかも。(そういえば日本ではすぐに男女関係に発展する。タクシーで指が重なれば何かの合図だと思ってしまうし。触れ合う事がない環境だからだろう。)

  

それがあるのはハグキスの文化が根底にあるからではないか。男女が触れ合うチャンスはしょっちゅうある。毎日10人以上の女性を抱きしめられる環境、ということだ。そこで性欲を程よく発散しているのでは、というのが私の今のところの見解。 

 

最近、マケドニア人の男友達が愛おしくてハグしたくなる自分を見つけたとき、「うわぁこんな感覚はじめてだ」と思ったのだった。

 

 

貞操観念が崩壊した東京

東京で32年間生きてきた中で違和感を抱き続けた一つが性への価値観だ。

 例えば不倫。ここには数多くの不倫がある。IT業界の一部の成功者は家庭を作ったあとにどうやって二つ目の家庭を作るかが共通認識として話されたりする。

そんなの、あくまで個人の価値観だ。もちろん。だけど人間は同期する生き物。環境により大きく左右される。伝染するのだ。不倫が当たり前の文化の中で暮らしていたら、不倫に対しての罪悪感を持つほうが難しいだろう。

 

風俗の充実。前職では、飲み会の後に男性陣がこぞって風俗に行くなどということもあった。タイに男性何人かで行けば、売春をするのは暗黙の了解。それを飲み会の場で話すのも非常に明るく楽しく会話がなされる。

 

JKカフェやメイドカフェなどの存在も性を売り物にしている。JKカフェやメイドカフェでお父さんと同じくらいの客相手に「にゃんにゃん」「ご主人様」などと言って商売する若い女の子は、自己尊厳がなさすぎる。

 

セックスフリーをうたう国や地域もあるし、体験談はないがセックスアンドザシティを見る限りNYもセックスは氾濫しているのかもしれない。ただ東京でのセックスの氾濫は、そこに自己承認が絡んでるからとても不幸な感じがする。性欲がオープンになっているのではなく、日本の女の子は性を売ることで自己承認を得ているからだ。

 

 

なんでこんなに、貞操観念が崩壊しているんだろう?

なんでそうなっているんだろう?

 

私なりに思い当たる理由を書き出してみる。

  

1. 性はタブーとされ、男女の接触さえも無い抑圧された社会

家庭の中でも社会でも、性教育はなく、性について語るのはタブーとされているのは日本の特徴。さらに、日常のコミュニケーションで男女の接触は全く無い。こういった抑圧が逆に、日本の性産業を発展させたのではないかという仮説。

こちらにも記したが、マケドニアと比較して思考を深めている。

 

2. 自己承認に欠ける家庭

一見、性産業と関係ないが、私はこれが特に女性側への原因だと思う。セックスを軽視し、簡単に身を売る(金銭が関わらなくても)女性は、何かに植えている。何かを埋めたくてセックスをしたり、チャットアプリで見知らぬ人と会話をしたり、言い寄ってきたおじさんとセックスしたり、メイドカフェでにゃんにゃん言葉を使ったりする。

彼女たちのその根源にあるのは、誰かに必要とされたい、愛されたいのだ。

それは、本来家庭で受けるべき愛情が、不足していたのだと思う。

JKカフェで働いている女の子の話を聞いていると、たまにリストカットをするが親はそれを心配しない(逆に迷惑がる)などの信じられない話を平気でしてくれる。

 

 

その理由としてこの辺が思い当たっている。

・親の精神的未熟さ

・育児・子育てへの軽視

・愛情表現力に乏しい言語

 

親の精神的未熟さは置いておく。

育児・子育てへの軽視は、男女ともに働くことケースが増えた昨今、女性の社会進出と子育ての両立が議論されていて働く私も漏れずにその議論には興味があるのだけど、だんだん外部のサービスを活用して子育てを効率的にまわす思考になっていることに気づく。育児や子育ての内容の深さを議論するのではない。

私は子供もいなく育児未経験者なので想像でしかないが、本来は育児や子育てで「絶対に抑えなければいけないポイント」はいっぱいあるんじゃ無いかと思っている。それを見逃しまくって仕事してない?という。

 

次に愛情表現力に乏しい言語。

築き上げられた国民性に、言語の影響は大きいと個人的には思っている。

例として、日本語では"I love you"にあたる適切な言葉がない。だが英語の”I love you”と言う言葉は、恋人はもちろん家族にも使う。そして頻繁につかう。おはよう、おやすみのようにI love youと言って愛情を伝える。日本語の「愛している」は重たすぎてとても家族で使えるイメージではない。

また、英語では"I love my kitty"と言う表現をするが、これの日本語訳がない。「私の猫ちゃん超可愛いの!」みたいな表現か?猫に対するloveという感情が表せない。可愛いという表現に置き換えたりしている。

つまり日本語では愛情表現がしにくい言語だと思うのだ。

 

そんな背景もあってなのか、日本の家族での愛情の伝え方は、言葉にせずとも分かりやすい態度に示さずとも、「察知する」ものとなった。それは美学ともいえる。だから日本人は「察知力」が高く、協調能力が高い。だが分かりやすい愛情を受け取れないことの副作用も同時にあるのではないか。

 

承認に植えた状態の女性が、性的なものと引き換えに誰かから必要とされることを得ているように思えてならない。

 

3. 正常/異常 しかない多様性のない社会

全てが正常じゃないといけない雰囲気。何か一つでも失敗すると全てが失敗(異常)になるような社会。

結婚をして子供を産むことが幸せ、30歳を超えて未婚の女性は負け組、外国人と結婚する人は日本でモテなかった人、宗教は「どの宗教」と言う議論より宗教を持っているだけで異常、小学校の教育で子供の人生が決まる、、

島国の単一民族で多様性に恵まれない環境では、価値観が固定化することは致し方ないとも思う。だが閉塞的だ。この環境の中では「正常」とされる(認められる)ためには、あれもこれも満たさねばならないポイントが山ほどあるのだ。